zero to twelve to twenty
あと二時間ほどで私は二十歳(はたち)になる。
18歳での投票権が認められるようになり暗黙の了解的にSAKEを楽しむ昨今の若者にとって、実務的な観点から見れば二十歳の誕生日は19歳の誕生日や21歳の誕生日とほとんど大差ない。私にとってもそうだ。私が20歳になるということを考えた時、まず思い起こされるのは10代が終わるということの虚しさについてだ。次いで、なんとなく、なんとなくもう自分も大人になるのだなということ。終わりを強く実感することはあっても、その先の未来に思いを馳せることはなかなか難しいのかもしれない。
二十歳を特別なものと位置づける象徴的な式典である成人式もまた、私に二十歳の実感を与えるに至らなかった。市の成人式実行委員会に選ばれた私は、準備関係の仕事の納期や当日の運営にヒィヒィ言わされていた。なんとか無事に式を終わらせようと必死だったため、式典の参加者としての意識がほとんどないまま気づくと成人の日は終わっていた。
ああ、そういえば高校を卒業した時にも似たようなことを思ったものだ。受験に必死だった(必死だったかはともかく意識は100%とられていた)せいで「高三の三月=受験終了」という印象が強く、六年間通った愛着の深い母校に別れを告げるという実感のないまま高校を卒業してしまった。今の気分はあの感覚に似ているものがある。まあその時と違って今回は終わりを認識できているからまだいい。何がいいのかはわからないけども。
そういう意味では、誕生日の当日に運転免許を取るという選択は図らずもとてもいいものだったのかもしれない。公道を乗用車で走るという行為には、今迄になかったタイプの重い責任が伴う。
このおかげで、なんとなくでも、実感をもって新しい立場に立つことができる。
私は大人になるということをどのように捉えてこれから生きていくのだろうか
生きていくことに前向きでいたいと思って生きていけるのはとても楽しいことだ
たぶん幸せな人生って前向きな人生だと思う
幸せな人生を、送ります
lol rank日記
12/4
let's go great escape‼︎‼︎
おなかすいた
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バイト終わりに後輩と色々話している流れで、俺は何かを評価する時に偏見から受ける影響が強いと指摘された
俺は、今まで自分が偏見の強い人間だと思ったことはあまりなかった。あったとしても、自分が自分として生きてきた結果だと、それについてあまり深く考えることはなかった。
厳密にいえば偏見がない人間なんていないでしょ、ハハハくらいに流してきた
しかし、きょうの文脈において俺が納得した俺自身の偏見の強さは、それについて深く考えるに値するような性質のものだった。そういった種類の偏見が強いとすれば、あまり好ましくない性質のものである
いつもどんなものにおいても、想像もし得なかった考え方というのは納得性が高く見えるものだ。ファーストタイムのインパクトが落ち着いた頃合いに、もう一度これについて考えてみたい
あと、まだ自分が変われるのだな、ということを認識できたのは今日のとても大きな収穫
人に生き方を揺さぶられるのはとても楽しい
こういう感覚からひどく遠ざかっていた
悲しみをやさしさに
悲しみを何かに発散すると、余計に悲しくなります
monster dance
鏡
自分の態度ひいては人間性は、相対する人間のXによってころころ変わる
私に限った話ではないと思う。そうだとしておく
逆に言えば、他人の自分に対する態度は自分のXによって決まっているということ。だから期待されるのはとても嬉しいことだ。(過去に相対した)「自分」にその人にとって期待をかけるだけのXがあるということだから。そしてそれはとても大変なことなのだ……
ということを最近とみに思います
お互いに何も期待せず、そばにいるという機能のみを満たし合う関係は気楽です
また、もっと気楽なのは一人でいることです
生きるのは面倒です
Oh my darling!
darlingといえばMr.Childrenと輿水幸子
弟はミスチルがとても好きだが、友人に聞かせてみたところ歌詞が暗いとの評価を受けたらしい。RADの歌詞は暗くないのだろうか
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ダリ展に行ってきた
昔絵画というものには主に二つの存在意義があった。一つは情景をそのまま表現するためのツールとしての役割で、もう一つは宗教画として聖書の一節により現実味を持たせるような役割。しかしダリの生きた時代(20世紀)には、情景を完璧に捉える写真の技術が開発され、神は既にニーチェの手にかかった後だった。そんな時代の中で画家たちは「絵」をわざわざ書くことの意味を根本から考え直さなくてはならなかった……
なんていう時代背景のもとダリは絵を描いていた。(らしい。受け売り)
ダリの作品の中で私が一番面白いと感じたのは中期の作品だ。不自然さやシュールさがこれでもかと詰め込まれているのに、不思議と絵全体としてはまとまっている。そしてそれがまた逆に薄気味悪い、というような味の作品である。
一枚の絵に描かれている無数のモチーフを長く眺めていると、現実とそうでないセカイの境界が曖昧になるようななんとも落ち着かない気分になる。しかしなんとなく見入ってしまい、満足して目を離すとどっと疲れている、というようなことを繰り返していた。
このようなを作品を面白いと感じることができたのはなぜか、ということを考えてみる。考えてみるに、そこには上記のような前提知識を持っていたことが強く要因としてあるように思う。ダリの時代にはあえて絵を描くことの意義が云々というやつだ。
もしこれを知らなかったら、一見して何を書いているかわからない絵なんて普通に意味不明である。美しいだけの風景画や上手な人物画に意味はないという風潮が強かった20世紀と違って、今の時代は綺麗な風景画だってそこそこ評価される。いや知らないけど。とにかく、少なくとも俺にとってそういう絵には価値があるし、そういう絵を描かないでわざわざシュールな絵を描く画家なんてのは、頭がおかしいんだなくらいに思ってもおかしくない。むしろ当然の発想である。
小学生(と私)がピカソの絵を見て「こんなもん俺でも書ける」とほざくのと同じ論理である。
共感は納得に繋がる、ということを強く認識した1日だったように思う。
それだけに背景とか心情を発信受信するのが苦手な人は苦労するんだなあ。
性の喜びおじさんをバカにすんなよ!と言っていたラッパーの彼は、きっと感受性が高いのだろう。おじさんに対しての感受性なのか、世間の目に対しての感受性なのかはわからないけど
なんにせよ面白かった。美術館は空間そのものが幸せ
ちなみに
ダリは商業的に計画して成功した画家で、友人Mはその辺がだいぶ面白かったみたい。ダリの作品にはわかりやすい「ダリらしさ」が見えやすいものが多いんだけど、もしかしたらそれはブランド商法のためにわざとやっていたのかもしれないみたいな話
俺も面白いと思う。
フロイトの思想にも多大な影響を受けたらしくてその辺の話も面白いんだけど割愛。本気で生きた人の人生は面白みに満ちている。