と並べた言葉は嘘
ただあなたが元気で
幸せであればそれでいいの
と並べた言葉は嘘
と続く。マジ?
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幼い同級生の子供然とした振る舞いに、どうしてもイラついてしまう
イラつかないようにしようとしている時点で彼を下に見ていて、それ自体が悪いことだと言うつもりはないけれど、イラついているのにそのままでいようとするのは雑魚。自分が雑魚であることを認められない雑魚が、本物の雑魚なのだ
他人に迷惑をかけたくないという気持ちは、人に迷惑をかけられたくないという気持ちから来るものだ
自分にマウントをとるな
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優しくありたいし、優しさにマウントでなく優しさが返ってくる社会に生きたいね
たまたま強者と仲がいいことに甘えてはならない
吸い込まれそうな瞬間
もなかの記事に触発されたので、aikoの好きな歌詞を羅列する記事を書こうと思います
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◼︎吸い込まれそうな瞬間
見つめられれば 恥ずかしいけど
目をそらしたら 気づかれそうだから
同じように あなたを見た
吸い込まれそうな瞬間
(「二人」より)
この曲は見つめられれば恥ずかしいけど目をそらしたら気づかれそうだから同じようにあなたを見ただけの曲なんだけど
その時の、平静を装いつつ頭の中は真っ白。みたいな感覚を『吸い込まれそうな瞬間』って表現できる感性が好き。吸い込まれそうな心、とか吸い込まれそうな瞳、とかではない。吸い込まれそうな瞬間なのである
吸い込まれそうな瞬間という感覚は、こうして与えてもらって改めて考えてみると自分の人生の中にもいくつかあるように思える。恋愛ごとだけじゃなく
皆さんにもあるんじゃなかろうか。吸い込まれそうな瞬間
◼︎生きてくために泣くこともある
見上げたら喉が愛しかったので
甘いキャンディーのことも忘れて
小さい私の唯一の特権
思わずキスをしたの
二人周り流れるストーリー
生きてくために泣くこともある
それが私を強くするならば
それも一番の幸せなんです
(「シアワセ」より)
泣くことを生きてくためだと考えたことはあるだろうか。そこまで己の存在をかけて泣いたことが、あるだろうか
何が言いたいか。aikoは(?)、シアワセであるということに対してものすごく真剣なのだ。少なくともこれを聴いてる俺より
Bメロにこれでもかというほどシアワセな描写がされていることで、この歌詞が単なる字面以上の意味を持つように感じさせるつくりになっている。テクい
◼︎零れ落ちた水に紛れ泣いた
笑顔の空 あなたの様に私も
大丈夫になりたい
リンゴの赤 水風船が割れた
零れ落ちた水に紛れ泣いた
(「雲は白リンゴは赤」より)
高度な情景描写と心理描写が同時に行われている。聴くとわかるけどこの曲はかなりアップテンポで、aikoにありがちなアップテンポで悲しい歌詞のパターン
青空のもと割れた水風船の水に紛れて笑い泣くイメージがつく。リンゴの赤は普通に意味不明だが、この情景に不思議と違和感がない。センス
◼︎あなたを思い出すとどうしても優しい顔ばかり
今繋いだ 星電話
窓の外の光が写真になる
あなたを思い出すと
どうしても優しい 顔ばかり
(「星電話」より)
天才。この曲は初っ端にこのサビが来るんだけど、この少ない文字数にアホみたいな情報量が詰まっている
あなたを思い出すとどうしても優しい顔ばかりな恋愛経験はないが、なんとなくその感覚はわかるしめちゃくちゃエモい。俺が好きなaikoの曲はそんなんばっかである
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飽きた。以上
気になった曲があったら声をかけてください
枯れずに咲いて、自惚れ愛して
「この塩レモンチューハイとかいうの、うまそうじゃない?」
私はその缶チューハイを手に取り、コンビニの籠に入れる
「絶対うまいよこれ。塩でレモンのチューアンドハイだよ。まずくなる要素一ミリもないもんこれ」
「えっでもさっきキリートレモンハイ買ったじゃん」
Jは少し驚いた顔で言う。私たちは宅飲みの買い出しでセブンイレブンに来ていたが、その前にローソンにも寄っていた。ローソンの品揃えが貧弱すぎたため、コンビニのハシゴを余儀なくされたのである
「んーーー。あー、じゃあ戻すわ」
「いやいや飲もうよ」
「そう?じゃあ飲むか」
そんなやりとりをして、私は再度塩レモンチューハイを籠に入れた
Jと私は仲がよい
だからこそ彼は似たものを買ったことを指摘してくれたのだろうし、それを受けた私はうるせえ買うわくらいのことを言うべきだったように思う。せっかく仲のいい人といる時に、無意識のうちに当たり障りないムーブをしてしまったのだ。
仲がいい人と一緒にいる時にそうでもない人用の動き方をするのは、そうでもない人といる時に特定の身内ムーブをかますのと同じかそれ以上にやりたくないことだ。
やっちまったなあと、今4時間くらい前のことをぼんやり思い出しモヤモヤする
モヤモヤ後悔供養
ライオン眠るグリーンランド
私は、手持ちの小銭が極力少なくなるように会計をするタイプの人間だ。財布の中にある小銭の合計金額が999円より大きくなることは全くないと言っていいだろう。なぜかと言われても困る、そういう性分なのである。
にもかかわらず、最近私の財布の中にはなぜかずっと五円玉が3枚入っていた。2枚ごときではなく、3枚である。この2枚と3枚の差は読者の皆さんが思う以上に大きく、たとえば一度ばかり五円玉を見逃すことはあっても、私のような人間が二度も五円玉を見過ごして会計をするということは、本当に滅多にないことである。
であるからこそ私はこれがなぜか妙に嬉しく感じられ、これに気づいてからはなるべく五円玉を大事に扱ってきた。
そして今、何気なくレジに出した五円玉が、その最後の生き残りであるようだった。
恥ずべきかな、この五円玉を出した時にようやく、私は同時に存在した3枚の五円玉のことをやっと思い出した。
だからといって一度外に出した五円玉を引っ込めるようなことはしなかった。店員に対して意味不明な行動を取ることが恥ずかしいとかではなく、単純にそこまでの思い入れがなかったのである。
こうして購入したパピコには、3枚に連なった五円玉以上の価値があるように思えなかった。パピコには普遍的に140円強の価値があり、それ以上の価値はなかった。私が簡単に手放してしまった五円玉には、私の中ではおそらくそれ以上の価値があったのだろう。そんなことをぼんやりと思いながらセブンイレブンをあとにした
酔った帰り道に友達と食べるパピコはやはりおいしかった。パピコはいつもおいしいのだ。
やはり今日も同じようにおいしかった
ただそれだけのことなのだ
そんなこと考えなくてよくなるように
責任のない人間に迷惑をかけるやつはクズだ
俺は他人と深く関わるということについて、少なくとも人並みに考えてきたつもりである
そしてその結果として、俺の目の前にはこの状況が横たわっている
今はもう自分が死ねばいいとは思わない。死ぬべきだと思わない
こういう感覚の連続が、生きていくってことなのかもしれない。それを言い訳にするつもりはないのだけれど、、と言いつつそうなっているのだ。そうなっているからそんなことを言うのだ。なんとか自分を納得させる言い訳を、この期に及んで考えようとしているのだ
そこをごまかしてはいけない
一つ言えるのは、育てたものはいつか収穫しなければいけないということ。たとえばそれが取り返しのつかなくなった爆弾とかそういうものだとしても
鳩になりてえ
冷たい嘘
最後のキスはきっと冷たいキスだと
冷たい頬に触れてみた
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定期的にセックスしたいだけの人
特定の集団の中で仲良くしてたいだけの人
ゆるく恋人ごっこしたいだけの人
みたいな認識同士で始まった関係が、時が経つにつれなんだか変わってきてしまうということがある
時々ちらつかされる本気さみたいなものを、たまらなく面倒だと思ってしまう
でもそれを声高に主張することはできない。俺は冗談でも、相手の態度を変えるに見合うだけの言動と態度をとり続けてきたはずだから
心地よい関係にあったはずな相手から期待される自分の在り方が変わるというのは、あんまり気持ちのいいもんじゃないし、それにうまく応えられないとなれば尚更
でもだからといって、ただ漫然と他人の期待する自分で在り続けるべきではない。
能力的には応えられる期待に、自分の意志でNoを突きつける苦しさこそが、自分を自分たらしめているような気もする
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楽しいが幸せでない時期が長かったことから「幸せでさえあればいい」という形の幸せ信仰が自分の中で強かったが、どうやらやっぱり楽しさも持ち併せてないと意味がないっぽい。難しいねえ
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最終的に残るのは行動原理じゃなくて行動の結果だし、基本的に事実にかなう事象は存在しない
うすぼんやりと辛いとか気まずいとか無気力とか、そう言った状態から脱却するには
対症療法的に精神状態そのものに刹那的なアプローチをかけるよりも、一瞬後の未来から見た時に過去として存在する現在に少しづつでも自分を肯定できるような積み重ねをする作業の方が有効なんだというのはよく言われている話だが、本当にそうだと思う
というよりも最近の実感として、対症療法は対症療法としての機能すら果たせていないというのがある
酒を飲むとか金を大量に浪費するとか食いたくもねえラーメン食うとか、今の俺はやらないけどタバコ吸うとか風俗行くとか。平行世界の俺とか未来の俺がそういうものにハマっている可能性は十分あるんだけど
そういうジャンキーな嗜好品を、言い訳するように消費してはいけないように思う
楽しくなるために消費しなければいけない。消費しても楽しくならない時には、これを消費してはいけない
結局生きていくしかねえんだし
人を騙したくねえ