小麦の粉

メルヘン系ブログ

Oh my darling!

darlingといえばMr.Children輿水幸子


弟はミスチルがとても好きだが、友人に聞かせてみたところ歌詞が暗いとの評価を受けたらしい。RADの歌詞は暗くないのだろうか

 

 

ダリ展に行ってきた


昔絵画というものには主に二つの存在意義があった。一つは情景をそのまま表現するためのツールとしての役割で、もう一つは宗教画として聖書の一節により現実味を持たせるような役割。しかしダリの生きた時代(20世紀)には、情景を完璧に捉える写真の技術が開発され、神は既にニーチェの手にかかった後だった。そんな時代の中で画家たちは「絵」をわざわざ書くことの意味を根本から考え直さなくてはならなかった……

なんていう時代背景のもとダリは絵を描いていた。(らしい。受け売り)

 

ダリの作品の中で私が一番面白いと感じたのは中期の作品だ。不自然さやシュールさがこれでもかと詰め込まれているのに、不思議と絵全体としてはまとまっている。そしてそれがまた逆に薄気味悪い、というような味の作品である。

一枚の絵に描かれている無数のモチーフを長く眺めていると、現実とそうでないセカイの境界が曖昧になるようななんとも落ち着かない気分になる。しかしなんとなく見入ってしまい、満足して目を離すとどっと疲れている、というようなことを繰り返していた。

 

このようなを作品を面白いと感じることができたのはなぜか、ということを考えてみる。考えてみるに、そこには上記のような前提知識を持っていたことが強く要因としてあるように思う。ダリの時代にはあえて絵を描くことの意義が云々というやつだ。

もしこれを知らなかったら、一見して何を書いているかわからない絵なんて普通に意味不明である。美しいだけの風景画や上手な人物画に意味はないという風潮が強かった20世紀と違って、今の時代は綺麗な風景画だってそこそこ評価される。いや知らないけど。とにかく、少なくとも俺にとってそういう絵には価値があるし、そういう絵を描かないでわざわざシュールな絵を描く画家なんてのは、頭がおかしいんだなくらいに思ってもおかしくない。むしろ当然の発想である。

小学生(と私)がピカソの絵を見て「こんなもん俺でも書ける」とほざくのと同じ論理である。

 

共感は納得に繋がる、ということを強く認識した1日だったように思う。


それだけに背景とか心情を発信受信するのが苦手な人は苦労するんだなあ。

性の喜びおじさんをバカにすんなよ!と言っていたラッパーの彼は、きっと感受性が高いのだろう。おじさんに対しての感受性なのか、世間の目に対しての感受性なのかはわからないけど


 

なんにせよ面白かった。美術館は空間そのものが幸せ

 

 

ちなみに

ダリは商業的に計画して成功した画家で、友人Mはその辺がだいぶ面白かったみたい。ダリの作品にはわかりやすい「ダリらしさ」が見えやすいものが多いんだけど、もしかしたらそれはブランド商法のためにわざとやっていたのかもしれないみたいな話


俺も面白いと思う。

フロイトの思想にも多大な影響を受けたらしくてその辺の話も面白いんだけど割愛。本気で生きた人の人生は面白みに満ちている。