自分に正直週間と人に優しく週間が交互にやってくるという話
自分に正直でいることと、人に優しくあること。
この二項はしばしば矛盾する。
じゃあどっちのがいいの?を考えた時
要はバランスの問題なのだが、俺のように頑固な人間はどうしても極端になりたがる。
自分に正直でいよう期には、人を思いやって言葉を曲げるのは欺瞞だと思うし
人に優しく期の時は、人を傷つけることを極端に恐れて無難な態度しか取れなくなってしまう。
双方の態度に通底しているのは、やるならとことんやるべきだという意識だ。プライドが高い人間は、自分の行動に一貫性を求める。
ここまでは俺の中の一般論で、ここからはそれを俺の最近の生活に演繹した話になる。
ここ何年かはずっと自分に正直でいよう期だったが、半年前に彼女と別れてから、最近俺の中の人に優しく党が徐々に議席を伸ばしてきた。
人に優しく党が議席を伸ばすのは、自分が苦しい時だ。世界が自分に優しくあってほしい時に、人は人に優しく党に投票する。
人に対する態度というのは、自分が同じことをされてもいいと思える態度になる。
道徳とかの問題じゃなく、これはみんな無意識のうちにやっていることだと思う。
それでもいじめやらが起きるのは、相手の立場に立って考える能力がないからではなく、相手の立場になる自分を想像できないからなのだと思う。
俺も同じで、当時の彼女に電撃的な別れを告げられる半年前までは、それでいいと思っていた。(むしろそうあるべきだと思っていた。)
それというのはつまり、個々人が好きなように振る舞った結果が、人間関係であり恋人関係であるべきだ。といった主張のことである。
だがそれは電撃的な別れやそれを付随する痛みの数々を、自分に降りかかる災厄として認知していなかったが故の態度だったと今は思う。
個々人が好きなように〜が間違っているというわけではない。これは正しい。
その中で俺は、相手が好きなようにした結果自分を選び続けてくれるための努力を怠っていたということなのだ。
ここを履き違えてはならない。
じゃあなんで努力を怠ったかといえば、それはもっと実際的な認知のズレに起因している。
俺が自分にとって彼女(一般名詞)の価値を測り間違えていたという話だ。
別れてもすぐ同じような人が見つかると思っていたが故の思想であり、態度だった。
しかしそれは誤りだったと認めざるを得ない。
最近またよく嫌な夢を見る。
夢の中で俺は、もうさして俺に興味のない彼女(一般名詞)に追いすがり、雑に逃げられる。
愛されていた時期があるから、興味のなさに余計に気づいてしまう。
目覚めは最悪で、そういう日は大体1日棒に振る。
満たされない自分との向き合い方がうまくいかないならば、満たされる状態を作るための努力をしなくてはならない。
そんなことはわかっている。
彼女(一般名詞)の代替品たる人が見つからないのはコロナのせいではないし、おそらく俺の魅力が極端に低いせいでもない。
俺は恋が好きなようで、その恋の根底には愛があることを求めている。
愛情は時間をかけて育まれるものだから、4年くらいの付き合いがあった彼女(一般名詞)と同じ密度で、今満たされていようとするのは土台無理な話なのだ。
そんな関係をまた持てるようになるまでに、どれほどの月日がいるのだろう。
その月日が別れるリスクであり、その月日を色恋に興じていられることが別れたリターンだ。
俺はリターンを求めて努力を怠った。
今思えばそうだったということでもあるし、それは当時から思っていたことでもある。
想像以上のリスクに見舞われているならば、想定以上のリターンを得るしかない。
恋人との決別を「いい経験」なんて月並みに済ますつもりはない。
が、何事もそれをいい経験にできるかどうかはこれまた月並みだが自分次第である。
ということが今実感されている。
俺は勝つぞ!!!!!!!!!!!!
今後のノセくんの動向から、ますます目が離せない。