時が過ぎる音
aikoの「指先」紹介記事です
なお、aikoの曲は結構規制がキツくてyoutube等ではあまり聞けません。「指先」に関しても同様だったので、もし興味を持った方がいらしたら是非ご連絡ください。音源差し上げます
私は音楽的な知識に深いわけでもないので、基本的に歌詞をメインに紹介していきます
歌詞はこちら
http://j-lyric.net/artist/a000619/l01fcb3.html
この曲は、男女の別れに伴うフラれた側の未練ややり切れなさを歌ったもの。
一般的にこういう主題の曲には、その未練や相手を想う気持ちが強く込められます。歌詞やメロディーに乗り移ったその想いから、曲全体が悲痛な雰囲気や気持ち悪さを放つものとして完成させられがちです。そしてそれがどこか美しいものとして評価されたり、味として受け入れられたりします。
槇原敬之「もう恋なんてしない」
山崎まさよし「One more time, One more chance」
などはその典型と言えるでしょう。
私はとても好きです。
西野カナ「会いたくて 会いたくて」
もこれにあたるでしょう。音楽として評価できるものであるかどうかは別の話ですが、ある種の感性を持つ人の共感性に強く訴えかける曲になっています。
とにかく、失恋後の心情を歌う曲というのは、失恋に対して苦しんでいる自分の心情を訴えるものが多いです。
長くなりましたが、ここで「指先」の話に戻ります。
aiko楽曲の魅力は基本的にどれもその世界観にあります。上記のような主題がaikoの世界ではどのように展開されているのか、というところがこの楽曲のキモになります。
この曲の、aikoの失恋ソングの世界観の優れているところは、別れに対する絶望感や無力感を強く抱きながらも、この感情をチラシの裏に書き連ねるに留まらない点です。
失恋というものをある種の人生経験として捉え、その経験を活かして、前向きにこれからの人生を歩もうとする建設的な姿勢が見えます。
この快活さや爽快感が、この曲ひいてはaikoの魅力に繋がっているように感じます。
歌詞を見ていきましょう
1番Aメロでは
「時が過ぎる音を忘れるまで寄り添って過ごした日々」などには相手への想いの強さが色濃く表現されています。
その後の1番Bメロ
「ガラスの箱の中いま私が叫んでる 声をなくして息が止まりそう」では拒絶されたことで行き場の無くなった想いのやりきれなさや、無力感が表現されています。
これらは上記の典型的な失恋ソングによく見られる歌詞の形態です
しかし2番になると
「あなたはこんなにも胸が痛くなるくらい また新しく誰かを思うの?」
「誰よりもただ苦しいと 思ってしまうあたしが嫌いよ」
などといった歌詞が出てきます
上では自らの経験を恋愛そのものにおける普遍的な命題として設定しています。経験を普遍化して次に活かそうとする姿勢は非常に前向きです。
下では、失恋したての人間にありがちな私が1番世界で不幸な人間なんだょ……的なクソメンヘラ(歌詞の中の「自分」自身のことでもある)に一つ上の次元から喝を入れています。別れたことに対して不貞腐れてそれで終わりにしてしまうつもりはないようです。
このテーマでこの曲を聴く際非常に面白いのがCメロなのですが、長くなるので割愛します。
そしてラスサビで
「間違いなんてどこにもなかった」
という形で、失恋という経験を分析して辿り着いた結論が示されます。相手や諸々の環境が間違っていたせいで別れたのではなく、まして自分の選択が誤っていたわけでもない。過去を後悔するでなく、しかし否定もしない。毅然とした態度がはっきりと表現されて、この歌詞は終わります
ここまで断片的な歌詞の切り抜きのみを見てきましたが、今日全体を通して聴くとこのような印象はむしろより強まると思います。
ピアノイントロやメロディーの疾走感も、このようなイメージを増長させています。
一風変わった失恋ソングの「指先」是非一度聴いてみてください。
幸せになりたくて
もがくことすらしない
zero to twelve to twenty
あと二時間ほどで私は二十歳(はたち)になる。
18歳での投票権が認められるようになり暗黙の了解的にSAKEを楽しむ昨今の若者にとって、実務的な観点から見れば二十歳の誕生日は19歳の誕生日や21歳の誕生日とほとんど大差ない。私にとってもそうだ。私が20歳になるということを考えた時、まず思い起こされるのは10代が終わるということの虚しさについてだ。次いで、なんとなく、なんとなくもう自分も大人になるのだなということ。終わりを強く実感することはあっても、その先の未来に思いを馳せることはなかなか難しいのかもしれない。
二十歳を特別なものと位置づける象徴的な式典である成人式もまた、私に二十歳の実感を与えるに至らなかった。市の成人式実行委員会に選ばれた私は、準備関係の仕事の納期や当日の運営にヒィヒィ言わされていた。なんとか無事に式を終わらせようと必死だったため、式典の参加者としての意識がほとんどないまま気づくと成人の日は終わっていた。
ああ、そういえば高校を卒業した時にも似たようなことを思ったものだ。受験に必死だった(必死だったかはともかく意識は100%とられていた)せいで「高三の三月=受験終了」という印象が強く、六年間通った愛着の深い母校に別れを告げるという実感のないまま高校を卒業してしまった。今の気分はあの感覚に似ているものがある。まあその時と違って今回は終わりを認識できているからまだいい。何がいいのかはわからないけども。
そういう意味では、誕生日の当日に運転免許を取るという選択は図らずもとてもいいものだったのかもしれない。公道を乗用車で走るという行為には、今迄になかったタイプの重い責任が伴う。
このおかげで、なんとなくでも、実感をもって新しい立場に立つことができる。
私は大人になるということをどのように捉えてこれから生きていくのだろうか
生きていくことに前向きでいたいと思って生きていけるのはとても楽しいことだ
たぶん幸せな人生って前向きな人生だと思う
幸せな人生を、送ります
lol rank日記
12/4
let's go great escape‼︎‼︎
おなかすいた
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バイト終わりに後輩と色々話している流れで、俺は何かを評価する時に偏見から受ける影響が強いと指摘された
俺は、今まで自分が偏見の強い人間だと思ったことはあまりなかった。あったとしても、自分が自分として生きてきた結果だと、それについてあまり深く考えることはなかった。
厳密にいえば偏見がない人間なんていないでしょ、ハハハくらいに流してきた
しかし、きょうの文脈において俺が納得した俺自身の偏見の強さは、それについて深く考えるに値するような性質のものだった。そういった種類の偏見が強いとすれば、あまり好ましくない性質のものである
いつもどんなものにおいても、想像もし得なかった考え方というのは納得性が高く見えるものだ。ファーストタイムのインパクトが落ち着いた頃合いに、もう一度これについて考えてみたい
あと、まだ自分が変われるのだな、ということを認識できたのは今日のとても大きな収穫
人に生き方を揺さぶられるのはとても楽しい
こういう感覚からひどく遠ざかっていた
悲しみをやさしさに
悲しみを何かに発散すると、余計に悲しくなります