そんなこと考えなくてよくなるように
責任のない人間に迷惑をかけるやつはクズだ
俺は他人と深く関わるということについて、少なくとも人並みに考えてきたつもりである
そしてその結果として、俺の目の前にはこの状況が横たわっている
今はもう自分が死ねばいいとは思わない。死ぬべきだと思わない
こういう感覚の連続が、生きていくってことなのかもしれない。それを言い訳にするつもりはないのだけれど、、と言いつつそうなっているのだ。そうなっているからそんなことを言うのだ。なんとか自分を納得させる言い訳を、この期に及んで考えようとしているのだ
そこをごまかしてはいけない
一つ言えるのは、育てたものはいつか収穫しなければいけないということ。たとえばそれが取り返しのつかなくなった爆弾とかそういうものだとしても
鳩になりてえ
冷たい嘘
最後のキスはきっと冷たいキスだと
冷たい頬に触れてみた
ー
定期的にセックスしたいだけの人
特定の集団の中で仲良くしてたいだけの人
ゆるく恋人ごっこしたいだけの人
みたいな認識同士で始まった関係が、時が経つにつれなんだか変わってきてしまうということがある
時々ちらつかされる本気さみたいなものを、たまらなく面倒だと思ってしまう
でもそれを声高に主張することはできない。俺は冗談でも、相手の態度を変えるに見合うだけの言動と態度をとり続けてきたはずだから
心地よい関係にあったはずな相手から期待される自分の在り方が変わるというのは、あんまり気持ちのいいもんじゃないし、それにうまく応えられないとなれば尚更
でもだからといって、ただ漫然と他人の期待する自分で在り続けるべきではない。
能力的には応えられる期待に、自分の意志でNoを突きつける苦しさこそが、自分を自分たらしめているような気もする
ー
楽しいが幸せでない時期が長かったことから「幸せでさえあればいい」という形の幸せ信仰が自分の中で強かったが、どうやらやっぱり楽しさも持ち併せてないと意味がないっぽい。難しいねえ
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最終的に残るのは行動原理じゃなくて行動の結果だし、基本的に事実にかなう事象は存在しない
うすぼんやりと辛いとか気まずいとか無気力とか、そう言った状態から脱却するには
対症療法的に精神状態そのものに刹那的なアプローチをかけるよりも、一瞬後の未来から見た時に過去として存在する現在に少しづつでも自分を肯定できるような積み重ねをする作業の方が有効なんだというのはよく言われている話だが、本当にそうだと思う
というよりも最近の実感として、対症療法は対症療法としての機能すら果たせていないというのがある
酒を飲むとか金を大量に浪費するとか食いたくもねえラーメン食うとか、今の俺はやらないけどタバコ吸うとか風俗行くとか。平行世界の俺とか未来の俺がそういうものにハマっている可能性は十分あるんだけど
そういうジャンキーな嗜好品を、言い訳するように消費してはいけないように思う
楽しくなるために消費しなければいけない。消費しても楽しくならない時には、これを消費してはいけない
結局生きていくしかねえんだし
人を騙したくねえ
君が好きだと小さく呟けば
なんだかね
勝手に行き過ぎた罪悪感を持って他人から離れるの、マジで良くないとは思いつつもなんだかね
ゼミの先生は俺がゼミにあんまり行かなかったので心配しているらしい、というのを先生と仲のいい先輩に聞いた
罪悪感すごいけど、だからといって後期のゼミを切るわけにはいかない。楽をすればどこかにそのしわ寄せがくるのである…
ゼミ合宿行きたくねえ……
謝々!
このブログなんですけど、暫く封鎖します
理由は簡単で、随筆っぽい文章書きたい時に過去記事がキモすぎるここに投稿できないから
新しいところ開設して、またキモいこと言いたくなったらここに来るよ。またね
アライブファクター
幼稚かつごちゃごちゃした記事です
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絵が上手い
歌が上手い
俺の知らない数学の概念を理解している
顔がいい
物語を書ける
大金を稼いでいる、またはその能力がある
女子高生とSEXができる、できていた
友達が多い、有名である
すげえなあと思う他人の持つ要素を適当に並べた
なんかこう、自分の中のコンプレックスを刺激する要因を過大評価しているなあという話
それがコンプレックスの定義だと言われればそれまでなんだけど
自分が自分であるということ以上に生きる意味っていうのはきっとなくて
自分というものは、死んだ時にそれまで生きてきた軌跡であって
軌跡というのは、自分の中にある価値観や哲学xに則って生きた結果である事実の連続f(x)で
t+1期のxは、t期のf(x)によって規定されてたらするんだけど、そのf(x)をxに還元する事象は、考えるという行為から成る
下手くそだな。簡単に言えば人生って
価値観に基づいた行動
→結果としての事実
-(考えるという行為)-
→価値観の変化
→変化した価値観に基づいた行動
→結果としての事実
………
っていうループの連続で
だから考えるのをやめたら人生終わりなんだよね。そこで死んでんのと一緒だから
最大化する効用というか勝ち負けルールの定義は、今日と明日が楽しいってことでいいと思う。今日が楽しいことと明日が楽しいことは、同じくらい大切なことだ
なんかこう楽しく生きたいよね
楽しいのって、いいよね
うまく使うのも泣いてみるのも
このブログを読んでるような人はわかると思うんだけど、半年くらい前までの俺は結構死にたがっていた。本当に死にたかったわけじゃないけど、軽いキッカケがあり勢いで死んでしまった、という可能性はあったように思う
じゃあ今はそうじゃないのか、といえば正直よくわからない。自分自身が大きく変わったという実感はまるでない
ただ、やっぱり就活をしたことと、留年をしたことは大きかった。自分は変わらないが、周りの環境は変わった。自分がこれからの人生を自分の力で生きていくのだという実感は、俺の表層的な在り方を大きく変えたのだと思う
死にて〜笑のテンションで生きていけるならきっと一生そのままだっただろうし、それが無理だとわからされたから人生を多少なりとも前向きに捉えられるようになった
昔の話をしよう
高校生の時の俺は今よりもっとアイマスにハマっていて、それなりに値の張るクソしょうもないくじを引くなどしていた。
今はそういうものに金をかけようとは思わないし、なんならこの年齢でそういったものにリソースを割く人間を揶揄さえするかもしれない。
でも、そんな過去の自分がバカだったとは思わない。いやそらバカなんだけど。でもその時の俺がその時の俺なりに効用を最大化する消費活動が一回800円のアイマス一番くじだったってことも、今の俺にはわかるわけだ
こんな風に最近は、むやみやたらと過去を否定することがなくなった
過去の自分と向き合う姿勢は、このくらいでちょうどいいんじゃないかと思う。過去っていうのは未来から見た今なわけで、自己自我同一性が保証されている条件下において自分の過去を否定的に捉えることは、今の自分がいつかの未来において否定されることと同義だから
人生まだまだこれからだ
昔より人生が楽しいことが、本当に嬉しいよ