浮草日記

メルヘン系ブログ

重影

明日はそれなりの関係の子と、嵐山渓谷に紅葉を見に行こうという話をしていた

しかしなんだか気分は乗らないし、紅葉前線を見るとまだ見頃でないらしい。来週以後に予定を遅らせたいがなんせもう前日だし、そもそもの日程を提示したのも俺だしで気分が重い。バイトが始まるとスマホを見れないので、その前に意を決して(3時間くらい粘った)相手にライン。予定遅らせない?と聞いてみる

 

以前(といっても具体的にいつまでというのがあるわけじゃないけれど)の俺だったら、何も言わずに微妙な気分のまま明日の予定をこなしていたかもしれないと思った。まさにこなすといったかんじ。人との約束が急にふっ、と面倒になってしまうことがある。そうなると、予定を楽しむことができる精神状態になかなかなれないのだ

 

五分くらいして相手から了承の旨が返ってくる。ありがたい

 

心の重荷を下ろすと、ふとKissHugが聞きたくなった。イヤホンをつけてスマホを操作すると、耳に落ち着いたイントロが流れ始める

 

 

友達だなんて 一度も思ったことはなかった

あなたに 出会ったあの日から

 

Aメロが始まる。こうして文字にするととんでもなく重い歌詞だ

KissHugはどこまでも内省的な曲だ。今はそれがとても心地よく感じられる

 

me, my depression, and my ideal holiday

日増しに寒くなる季節のせいか、近頃私は鬱っぽい気分になることが多かった

 

あらゆることに対してやる気が湧かず、自分や他人や或いは世界が、とてもつまらないもののように感じられてしまう感覚。「つまらない」「しょうもない」「くだらない」の無気力三銃士に、私の生活はすっかり塗り固められてしまっていた。

一度そういう気分になってしまうと、なかなか自分で脱するのは難しい。大学に行かず、家でダラダラとサッカーやYouTubeに違法アップロードされたお笑い番組ディスカバリーチャンネルなどを見て過ごした。時間が過ぎるのをただ受け入れていた、という方が正しいかもしれない。この時私は一人の生活者でなく、私の周りを眺める観測者であった。それがなんであれ、過ぎゆく時間とその使われ方をただぼんやりと受け入れるだけの存在だった

 

この流れに終止符を打つべく、私は早寝早起きを始めることにした。私はこれまでもたびたびこういった精神状態に陥り、その終止符は生活習慣の改善によって数多くもたらされてきた。早起きはできなくとも、とにかく早く寝ることだけは徹底した。風呂に入る30分ほど前からスマホを手放し、ゆっくり湯船に浸かり、風呂を出ると歯を磨き軽いストレッチと筋トレをする。それが終わるとすぐ布団に入り、寝つきが悪くともじっと眠気がくるのを待った

目が覚めるのはたいてい9時から10時の間で、なんとか授業に間に合う日もあればそうでない日もあった。全体としては少しづつ起床時間が早まっているので、このままいけば安定して授業に間に合うようになるだろう。日ごとの結果に一喜一憂することなく、習慣を身につけようと決めた

 

 

 

10/31は休日だった

 

授業は全休で、これといった予定もない。この日は目覚めると11時だった。ベランダに出ると日差しが強く暖かいが空気は冷たい。なんとなく食べたくなった蕎麦を茹で、用意されていた朝食とともに食卓に並べる。結果少し多めになってしまった昼食を食べながら、ぼんやりと今日を豊かな日にしようと決めた

夜に酒を飲む約束を入れ、丸々空いた午後の時間の使い方について思案した。どこかに行くか行かないか、一人で過ごすか人と遊ぶかというところが第一の論点だ。私はどこかに行くことを早々に決め、悩んだ挙句一人で過ごすことに決めた。これは極めて短期的で実際的な理由から決めたことだったが、後から振り返ってみるとなかなかの英断であった

 

普段は寄りもしない本屋で普段は買いもしない文庫本を買う。コンビニでは普段買う100円のプライベートブランドのお茶を棚に戻し、パッケージが気に入った「デカフェ」(カフェインレスをこう言うらしい)の午後ティーを買った

 

ふらふらと電車に乗り、近くの〜川駅で降りる。セブンイレブンで少し高いマウントレーニアを買い、歩き始めた。車窓から見えた景色を頼りに少し歩くと川にぶつかり、そのまま川沿いを30分ほど歩いた。少し高いマウントレーニアはまずかったのでもう2度と買うことはないだろう

 

その後も休憩を挟みつつ、時々看板や地図アプリを見て小目標を設定しながら歩き続けた。

大型車両だらけの私以外に誰も歩いていない大きな国道や、前述の川が合流したもっと広い川の河川敷、地方大学のキャンパスなどをだ

 

私はどの地点においても、正しく孤独だった

それは時折ベッドの中でどうしても感じてしまう孤独とはまったく違う感覚だった。一人でいるために満たされているのでなく、一人でいて且つ満たされていた。一人でいることと満たされていることはそれぞれまったく独立した事象で、それらが同時に存在していた

心は不思議なほど落ち着いていた。落ち着きすぎると逆に落ち着かなかったりもするが、そんなこともなかった

 

日が暮れてきたのでバスに乗って駅に向かい、私の孤独な旅は終わりを迎えた。夜は酒を飲み、遅い時間に家に帰った

 

そのせいで生活習慣はまた崩れるかもしれない。また整えればよいと思った

と並べた言葉は嘘

[aiko/ビードロの夜]

ただあなたが元気で

幸せであればそれでいいの

と並べた言葉は嘘

 

と続く。マジ?

 

 

 

幼い同級生の子供然とした振る舞いに、どうしてもイラついてしまう

イラつかないようにしようとしている時点で彼を下に見ていて、それ自体が悪いことだと言うつもりはないけれど、イラついているのにそのままでいようとするのは雑魚。自分が雑魚であることを認められない雑魚が、本物の雑魚なのだ

他人に迷惑をかけたくないという気持ちは、人に迷惑をかけられたくないという気持ちから来るものだ

自分にマウントをとるな

 

 

優しくありたいし、優しさにマウントでなく優しさが返ってくる社会に生きたいね

 

たまたま強者と仲がいいことに甘えてはならない

吸い込まれそうな瞬間

もなかの記事に触発されたので、aikoの好きな歌詞を羅列する記事を書こうと思います

 

 

◼︎吸い込まれそうな瞬間

 

見つめられれば 恥ずかしいけど

目をそらしたら 気づかれそうだから

同じように あなたを見た

吸い込まれそうな瞬間

(「二人」より)

 

この曲は見つめられれば恥ずかしいけど目をそらしたら気づかれそうだから同じようにあなたを見ただけの曲なんだけど

その時の、平静を装いつつ頭の中は真っ白。みたいな感覚を『吸い込まれそうな瞬間』って表現できる感性が好き。吸い込まれそうな心、とか吸い込まれそうな瞳、とかではない。吸い込まれそうな瞬間なのである

 

吸い込まれそうな瞬間という感覚は、こうして与えてもらって改めて考えてみると自分の人生の中にもいくつかあるように思える。恋愛ごとだけじゃなく

皆さんにもあるんじゃなかろうか。吸い込まれそうな瞬間

 

 

◼︎生きてくために泣くこともある

 

見上げたら喉が愛しかったので

甘いキャンディーのことも忘れて

小さい私の唯一の特権

思わずキスをしたの

 

二人周り流れるストーリー

生きてくために泣くこともある

それが私を強くするならば

それも一番の幸せなんです

(「シアワセ」より)

 

泣くことを生きてくためだと考えたことはあるだろうか。そこまで己の存在をかけて泣いたことが、あるだろうか

何が言いたいか。aikoは(?)、シアワセであるということに対してものすごく真剣なのだ。少なくともこれを聴いてる俺より

Bメロにこれでもかというほどシアワセな描写がされていることで、この歌詞が単なる字面以上の意味を持つように感じさせるつくりになっている。テクい

 

 

◼︎零れ落ちた水に紛れ泣いた

 

笑顔の空 あなたの様に私も

大丈夫になりたい

リンゴの赤 水風船が割れた

零れ落ちた水に紛れ泣いた

(「雲は白リンゴは赤」より)

 

高度な情景描写と心理描写が同時に行われている。聴くとわかるけどこの曲はかなりアップテンポで、aikoにありがちなアップテンポで悲しい歌詞のパターン

青空のもと割れた水風船の水に紛れて笑い泣くイメージがつく。リンゴの赤は普通に意味不明だが、この情景に不思議と違和感がない。センス

 

 

◼︎あなたを思い出すとどうしても優しい顔ばかり

 

今繋いだ 星電話

窓の外の光が写真になる

あなたを思い出すと

どうしても優しい 顔ばかり

(「星電話」より)

 

天才。この曲は初っ端にこのサビが来るんだけど、この少ない文字数にアホみたいな情報量が詰まっている

あなたを思い出すとどうしても優しい顔ばかりな恋愛経験はないが、なんとなくその感覚はわかるしめちゃくちゃエモい。俺が好きなaikoの曲はそんなんばっかである

 

 

 

飽きた。以上

気になった曲があったら声をかけてください

枯れずに咲いて、自惚れ愛して

「この塩レモンチューハイとかいうの、うまそうじゃない?」

 

 

私はその缶チューハイを手に取り、コンビニの籠に入れる

 

「絶対うまいよこれ。塩でレモンのチューアンドハイだよ。まずくなる要素一ミリもないもんこれ」

 

「えっでもさっきキリートレモンハイ買ったじゃん」

 

Jは少し驚いた顔で言う。私たちは宅飲みの買い出しでセブンイレブンに来ていたが、その前にローソンにも寄っていた。ローソンの品揃えが貧弱すぎたため、コンビニのハシゴを余儀なくされたのである

 

「んーーー。あー、じゃあ戻すわ」

 

「いやいや飲もうよ」

 

「そう?じゃあ飲むか」

 

そんなやりとりをして、私は再度塩レモンチューハイを籠に入れた

 

Jと私は仲がよい

だからこそ彼は似たものを買ったことを指摘してくれたのだろうし、それを受けた私はうるせえ買うわくらいのことを言うべきだったように思う。せっかく仲のいい人といる時に、無意識のうちに当たり障りないムーブをしてしまったのだ。

仲がいい人と一緒にいる時にそうでもない人用の動き方をするのは、そうでもない人といる時に特定の身内ムーブをかますのと同じかそれ以上にやりたくないことだ。

 

やっちまったなあと、今4時間くらい前のことをぼんやり思い出しモヤモヤする

 

モヤモヤ後悔供養

 

 

ライオン眠るグリーンランド

‪私は、手持ちの小銭が極力少なくなるように会計をするタイプの人間だ。財布の中にある小銭の合計金額が999円より大きくなることは全くないと言っていいだろう。なぜかと言われても困る、そういう性分なのである。

にもかかわらず、最近私の財布の中にはなぜかずっと五円玉が3枚入っていた。2枚ごときではなく、3枚である。この2枚と3枚の差は読者の皆さんが思う以上に大きく、たとえば一度ばかり五円玉を見逃すことはあっても、私のような人間が二度も五円玉を見過ごして会計をするということは、本当に滅多にないことである。

であるからこそ私はこれがなぜか妙に嬉しく感じられ、これに気づいてからはなるべく五円玉を大事に扱ってきた‬。


‪そして今、何気なくレジに出した五円玉が、その最後の生き残りであるようだった。‬

恥ずべきかな、この五円玉を出した時にようやく、私は同時に存在した3枚の五円玉のことをやっと思い出した。

だからといって一度外に出した五円玉を引っ込めるようなことはしなかった。店員に対して意味不明な行動を取ることが恥ずかしいとかではなく、単純にそこまでの思い入れがなかったのである。

こうして購入したパピコには、3枚に連なった五円玉以上の価値があるように思えなかった。パピコには普遍的に140円強の価値があり、それ以上の価値はなかった。私が簡単に手放してしまった五円玉には、私の中ではおそらくそれ以上の価値があったのだろう。そんなことをぼんやりと思いながらセブンイレブンをあとにした

 

酔った帰り道に友達と食べるパピコはやはりおいしかった。パピコはいつもおいしいのだ。

 

やはり今日も同じようにおいしかった

 

ただそれだけのことなのだ