小麦の粉

メルヘン系ブログ

あなたを抱きしめ目を閉じる

今の多幸感は明日の辛さに釣り合うものか?


何も知らなかった今日から、あなたを覚えたいつかまで


寒い日はもう、越せない


左手に髪の匂い


もうきっと、きっと


自己変革

待ってるねいつまでも

他人との関わり方


もう一人きりだって言わせないよ


人に誇れる生き方、要素を持つこと


eternal harmony



未来はきっと

プラリネ は、焙煎したナッツ類に加熱した砂糖を和えてカラメル化したもの。製菓原料として使用される。 粉砕・ペースト化したものや、焙煎したナッツのペーストと砂糖との混合物を指すこともある


アイドルマスターミリオンライブから、「プラリネ」という曲を紹介します。

歌詞


まだあたしにだって
子どもみたいに 信じる力があるよ

ってフレーズがありまして。ええ急に始まります。
昔、幼かった頃はこういう歌詞が嫌いだったんだよね。子どもに過度な無垢さを押し付けるようなフレーズ

AKBのbegginerって曲の
今調べたら2011年だから、中2か3の頃になるかな

今僕らは夢見てるか?子どものようにまっさらに

って歌詞を聴いて、子ども舐めんじゃねえぞと思った記憶がある。
少なくとも俺は、記憶に残ってる範囲でまっさらに夢を見てたことなんてない。だからかな、作詞者だって昔は子どもだっただろ、その時自分はまっさらに夢なんて見てたか?(反語表現)って思ってたんだよね。アイドル業界にはやっぱりそういう人多いのかな。この歌詞が想定してる「子ども」が3歳とか5歳って可能性も考えたけど、そりゃさすがにないよね。今僕らは夢見てるか?って提起で、ウルトラマンになりたいガキと20前後のわなびを比較するのはさすがにヤバいよ。
まあ普通に考えたら、たぶんサッカー選手とかケーキ屋さんとかパイロットとかそういう夢でしょう。小学校中学年くらいの。


まーとにかく、そういう表現が嫌いだったという話。でも、プラリネの「子どもみたいに信じる力があるよ」は、今すごい好きなんですよね

1.年齢が違う
2.歌い手に対する印象が違う
3.まっさらに夢を見ると信じる力があるという表現の違い

が印象の差異を生み出した原因であろうとは思う。
2の影響はまあ実際大きい
3も結構ある。信じる力っていうのはまあなんとも曖昧だけど、中3当時からしても過去の自分と比較して認識できるものだった。少なくともまっさらに夢を見ていることよりは
絶対に

それでも、やっぱり年齢によるところが大きいんだろうね。いや当たり前だけど

結局俺も、自分が昔忌み嫌ってた「過去自分が子どもだったことを忘れて一方的な理想像を押し付けるおっさん」にある程度なってしまったのかしらね。

ただ、この曲のいいところは子ども(=自分の過去)に勝手な解釈をするだけじゃなくて、最後に

未来はきっと 
子どもみたいに 信じるほどに光るよ

ってフレーズで終わってるところだと思う。未来を見据えて今を生きるための姿勢として、過去を利用する姿勢が清々しいというか、粘着質じゃないというか、うーん。

どうもbegginerを聞いた時には脳死で子どもの自分に万歳三唱してるイメージがある
プラリネは、「きっと」の力が大きいのかもしれない。無条件に肯定しないかんじ?
begginerだって今を生きるやり方として過去を振り返ってる歌詞なわけだし、印象の違いは表現からくる部分が大きいのかもしれないっすね

本当はもっとちゃんと紹介記事を書こうと思ってブログ開いたんだけど、やっぱり専門知識なしに曲の良さを説明することには無理があるって指先の際に学んだのでね。こんなかんじで

nano.ripeが作詞作曲してミリマスに提供した楽曲は今のところ全部で3つあるんだけど、その中だとプラリネが一番キャラのこととか何も知らなくても純粋に子どもみたいに楽しめる楽曲だと思うので、記事にしました。

興味出たら是非聞いてみてね
音源欲しかったら是非言ってください

ラブリーベイベー

今日は細く、赤い月が出ていた

最近は外を歩いていてもスマホをいじっていることが多く、そのあたりが生活全般によくない影響を及ぼしているように思う


私は青い月というものを見たことがない。いつか見てみたいと思う

それは幻想を求める類の願いとは違う。もっと前向きなものだ。なぜだかそうわかる

前向きな願いは美しいが、その美しさに酔ってはいけない

酔えばそれは途端に後ろ向きで陳腐なものになってしまうから

時が過ぎる音

aikoの「指先」紹介記事です


なお、aikoの曲は結構規制がキツくてyoutube等ではあまり聞けません。「指先」に関しても同様だったので、もし興味を持った方がいらしたら是非ご連絡ください。音源差し上げます


私は音楽的な知識に深いわけでもないので、基本的に歌詞をメインに紹介していきます


歌詞はこちら

http://j-lyric.net/artist/a000619/l01fcb3.html



この曲は、男女の別れに伴うフラれた側の未練ややり切れなさを歌ったもの。

一般的にこういう主題の曲には、その未練や相手を想う気持ちが強く込められます。歌詞やメロディーに乗り移ったその想いから、曲全体が悲痛な雰囲気や気持ち悪さを放つものとして完成させられがちです。そしてそれがどこか美しいものとして評価されたり、味として受け入れられたりします。


槇原敬之「もう恋なんてしない」

山崎まさよしOne more time, One more chance

supercell君の知らない物語


などはその典型と言えるでしょう。

私はとても好きです。


西野カナ「会いたくて 会いたくて」


もこれにあたるでしょう。音楽として評価できるものであるかどうかは別の話ですが、ある種の感性を持つ人の共感性に強く訴えかける曲になっています。


とにかく、失恋後の心情を歌う曲というのは、失恋に対して苦しんでいる自分の心情を訴えるものが多いです。



長くなりましたが、ここで「指先」の話に戻ります。

aiko楽曲の魅力は基本的にどれもその世界観にあります。上記のような主題がaikoの世界ではどのように展開されているのか、というところがこの楽曲のキモになります。

 

この曲の、aikoの失恋ソングの世界観の優れているところは、別れに対する絶望感や無力感を強く抱きながらも、この感情をチラシの裏に書き連ねるに留まらない点です。

失恋というものをある種の人生経験として捉え、その経験を活かして、前向きにこれからの人生を歩もうとする建設的な姿勢が見えます。

この快活さや爽快感が、この曲ひいてはaikoの魅力に繋がっているように感じます。



歌詞を見ていきましょう


1番Aメロでは

「時が過ぎる音を忘れるまで寄り添って過ごした日々」などには相手への想いの強さが色濃く表現されています。

その後の1番Bメロ

「ガラスの箱の中いま私が叫んでる 声をなくして息が止まりそう」では拒絶されたことで行き場の無くなった想いのやりきれなさや、無力感が表現されています。

これらは上記の典型的な失恋ソングによく見られる歌詞の形態です


しかし2番になると

「あなたはこんなにも胸が痛くなるくらい また新しく誰かを思うの?」

「誰よりもただ苦しいと 思ってしまうあたしが嫌いよ」

などといった歌詞が出てきます

上では自らの経験を恋愛そのものにおける普遍的な命題として設定しています。経験を普遍化して次に活かそうとする姿勢は非常に前向きです。

下では、失恋したての人間にありがちな私が1番世界で不幸な人間なんだょ……的なクソメンヘラ(歌詞の中の「自分」自身のことでもある)に一つ上の次元から喝を入れています。別れたことに対して不貞腐れてそれで終わりにしてしまうつもりはないようです。


このテーマでこの曲を聴く際非常に面白いのがCメロなのですが、長くなるので割愛します。


そしてラスサビで

「間違いなんてどこにもなかった」

という形で、失恋という経験を分析して辿り着いた結論が示されます。相手や諸々の環境が間違っていたせいで別れたのではなく、まして自分の選択が誤っていたわけでもない。過去を後悔するでなく、しかし否定もしない。毅然とした態度がはっきりと表現されて、この歌詞は終わります



ここまで断片的な歌詞の切り抜きのみを見てきましたが、今日全体を通して聴くとこのような印象はむしろより強まると思います。

ピアノイントロやメロディーの疾走感も、このようなイメージを増長させています。


一風変わった失恋ソングの「指先」是非一度聴いてみてください。






zero to twelve to twenty

あと二時間ほどで私は二十歳(はたち)になる。

 

18歳での投票権が認められるようになり暗黙の了解的にSAKEを楽しむ昨今の若者にとって、実務的な観点から見れば二十歳の誕生日は19歳の誕生日や21歳の誕生日とほとんど大差ない。私にとってもそうだ。私が20歳になるということを考えた時、まず思い起こされるのは10代が終わるということの虚しさについてだ。次いで、なんとなく、なんとなくもう自分も大人になるのだなということ。終わりを強く実感することはあっても、その先の未来に思いを馳せることはなかなか難しいのかもしれない。

 

二十歳を特別なものと位置づける象徴的な式典である成人式もまた、私に二十歳の実感を与えるに至らなかった。市の成人式実行委員会に選ばれた私は、準備関係の仕事の納期や当日の運営にヒィヒィ言わされていた。なんとか無事に式を終わらせようと必死だったため、式典の参加者としての意識がほとんどないまま気づくと成人の日は終わっていた。

 

ああ、そういえば高校を卒業した時にも似たようなことを思ったものだ。受験に必死だった(必死だったかはともかく意識は100%とられていた)せいで「高三の三月=受験終了」という印象が強く、六年間通った愛着の深い母校に別れを告げるという実感のないまま高校を卒業してしまった。今の気分はあの感覚に似ているものがある。まあその時と違って今回は終わりを認識できているからまだいい。何がいいのかはわからないけども。

 

そういう意味では、誕生日の当日に運転免許を取るという選択は図らずもとてもいいものだったのかもしれない。公道を乗用車で走るという行為には、今迄になかったタイプの重い責任が伴う。

このおかげで、なんとなくでも、実感をもって新しい立場に立つことができる。

 

 

私は大人になるということをどのように捉えてこれから生きていくのだろうか

 

生きていくことに前向きでいたいと思って生きていけるのはとても楽しいことだ

たぶん幸せな人生って前向きな人生だと思う

 

幸せな人生を、送ります